Cord Blood

母親と子は臍の緒を通じて一つの生であった。それだけ強い繋がりがあったはずなのに。

欲望は持ってはいけないのか?


欲望を持ってはいけないのではない。
その欲望を向けられるのが、自分へなのか人へなのかが、
欲望を持ってよいかどうかの判断基準になる。

自分のための欲望を持つ事は、
自分のみが助かり、苦しむ人を見捨てることだからだ。

だから欲望の面でだけで言えば、
自分の為にお金を貯めることはしてはならない。
他人の為にお金を貯める事ことはよい。
自分の為に働くことはしてならない。
他人の為に働くことはしてよい。

確かに本能的に言えば人へ向けられる欲望よりも、
自分に向けられる欲望の方が強い。
自分への欲望のために働いた方が、利益や効率の面で上回るだろう。
だがそれによって淘汰されるのは弱いものだ。
それを救うのは今であれば国である。

新自由主義的な手法によって得られる平等は、
お金を稼ぐ能力のある人の中だけでの話であって、
能力の無い人に対しては無力である。
だから結局のところ、国による介在が必要になるのだ。
だが、新自由主義的な考えに染まった、教育されてきた人が大半の中で、
国の中枢にもそういう考えの人が殆どを占める事は想像に難くない。
そういう人が能力の無い人に対して支える政策を打ち出せるのか。
そういう人が蔓延る世の中で、この人たちを支える政策が支持されるのか。

もしかしたら、
無力な人々を破滅させる考えが誤っていることに気付くかもしれない。
多くの無力な人の犠牲によってそのことに気付くかもしれない。
だがそれは極めて可能性の低い賭けでしかない。

だとしたら、たとえ利益や効率の面で下回る欲望であっても、
そのような多くの犠牲を伴わずに、弱者を支える世界を
実現すること自体が欲望であれば、それを初めから是として
出発すればいいのではないか。
これも賭けでしかないが、新自由主義の可能性よりも遥かに高いと思う。

そろそろ日本も宗教を持ったらどうか


日本には特定の宗教というものが無い。
年末年始を見ればそれが如実に現れる。
キリスト教の祭典であるクリスマスを祝い、
年が明けると仏教の除夜の鐘を聞き、
初詣で神道の神社で神様に願いを込める。

それぞれの宗教に対して深い理解があり、
信じているのなら問題は無いが、
周りの人を見ている限り何も知らずに、
社会がそう振る舞っているから、自分も振る舞っている
としか思えない。

クリスマスはキリストの誕生日ではなく、
誕生を祝うミサの日であることを知っているのか。
除夜の鐘は仏教の教えの煩悩の数である108回鳴らすが、
仏陀と釈迦とルタが分かっているのか。
初詣で神様に御願いするが、
その神社にどの神様が祀られているか知っているのか。
古事記を読んだ事があるのか。

こう考えてみると、日本では宗教が全く根付いていない
ことがよくわかる。
別に根付いていないことが悪い訳ではないが、
人生でとてつもなく辛い事が起きたときや、
異常な社会的道徳感が蔓延したときに何を基準とするのか。

例えば、残りの命があと半年だと告げられたら、
何を信じて生きるのか。
痩せる事が社会的に正しいと思い込まされ、
それを信じ込み拒食症になったとき何を信じるのか。
仕事をすることが社会的に正しいと思い込まされ、
それを信じ込み鬱病になったとき何を信じるのか。
お金があることが、美しい事が、かっこいいことが、
便利な事が、頭のいい事が、効率的な事が、健常な事が、
西洋的な事が、論理的な事が、科学的な事が
社会的に正しいと思い込まされ、それを信じ込み、
実は間違いだと気付いたとき何を信じるのか。

社会的に当たり前な事が正しいとは限らない。
当たり前の事を制御しない世の中は動物社会と何も変わらない。

今の時代、そういう人が溢れかえっているように見える。

May Jの最も意味のある負け


May Jの最も意味のある負け

関ジャニの仕分け∞」という番組で、
May JがLet it Goの歌を歌って見事に負けた。

私はこの負けが最も意味のある負けだと思った。

もともとこの番組は好きではなかった。
なぜなら歌を点数で勝ち負けを付ける事に意味があると思えないからだ。
機械が定めた音律通りに歌うことに何の意味があるのか。
それは人の命に値段を付けることと変わらない。
気持ちが籠っていてそれが伝わるから感動するのであって、
うまいから感動するわけではない。

無名だったMay Jが有名になり、遂にはディズニーの主題歌を歌う。
そしてその歌の点数で負ける。
今までの全勝をストップさせる。
だからこそ意味のある負けなのだ。
他の歌で負けてはいけない。
この歌で負けることが重要なのだ。

May Jは点数に押しつぶされそうになっていたという。
だからこの曲を歌う前に、音程のバーは見ずに歌うと言ったのだ。
もう分かっていたのだろう。

「点数で歌う事の無意味さ」を。
「こんなことを歌で争うことの空しさ」を。
そして気付いていたのだろう。
「歌は感動するから価値があるのだ」と。

点数なんて関係なく、人に思いが伝わる歌をこれからも届けて欲しい。

悲しみを嘆くか受け入れるか

韓国の旅客船沈没事故で、
韓国の被害者の家族が嘆いている姿がよく映し出される。
日本人からするとこの姿が異様な光景に映る。
東日本大震災で日本人は悲しみに暮れ、
呆然と瓦礫を見ている光景が見られた。

韓国人と日本人では死という絶望的な悲しみに
対する受容の仕方が違うのではないかと思う。
日本人は自然という絶対者に対して抗えないことを知っている。
抗ったところでどうしようもないことを知っている。
昔から何度も絶対者に苦しめられ続けている。

だが、周囲の人がそれを理解し共有してくれる。
一人では抱えきれない悲しみを他人事ではなく自分の事として
共感することができる。
だから悲しみを我慢し絶望を受け入れることができる。

たとえ恨まれている、嫌われている相手であっても悲しみを共感する。
それが日本人だ。

自然災害か人災か、先進国か後進国か、そんなものは関係ない。

Japanese Onlyは差別行為か防衛手段か


まず前提条件として外国に行ったら外国のマナーに従うのは当然である。

Japanese Onlyを掲げているお店や施設は別に日本人が優秀だからとか、
外国人を排除したいからやっているのではない。

掲げた背景には、それまでの外国人の振る舞いが
関係している事は忘れてはならない。
畳に靴で上がったり、タオルを湯船に漬けたり、
日本のマナーを学ばずに来た外国人がいたから、
他のお客さんを不快にさせない様にする為に
経営者側が仕方なく掲げているのだ。

つまり防衛手段であって決して差別している訳ではない。

だから単なる書き方に問題があるだけの話である。
「日本人だけ」では無く「マナーを守れる人だけ」にすればいいのだ。
ただそれだけの話である。

Japanese Onlyが掲げられたから、日本は右傾化しているとか
そういう単純な2段論法はこれから一切しないで頂きたい。
いやしてもいいけどそのときは、
自分は今からレベルの低いことを言います。
と宣言してからにして欲しい。

天声人語が女子高生を批判


今日の天声人語は女子高生を目の敵にしていた。

まず、テレビは新聞に比べて愚者が見るものである。
そのような愚者は時間の過ごし方がおかしくなる。

最近の女子高生は、以前の女子高生に比べて更に
スマホやケータイを見る時間が長く、
一日平均6.4時間使っている。
そんなものに囚われる愚者ではなく賢者として
それらを使いこなせということらしい。

私は言いたい。
朝日新聞は女子高生に6時間以上読ませる記事を
1度でもいいから書いたことがあるのかと。
スマホやケータイに依存している女子高生を批判してもいいが、
だとしたらその原因は新聞が詰まらないからということには
ならないのか?

活字離れを食い止められなかった新聞が、
スマホやケータイの活字を見ている女子高生を批判できるのか?

テレビやスマホが厄介な同居人であるというなら、
新聞は無用の同居人である。
今や勧誘する人が一生懸命頑張って、洗剤や無料チケットを
あげないと契約してくれない存在である。

そんな存在に女子高生を批判する資格があるとは到底思えない。
そもそもなんで女子高生を引き合いに出すのか?
なにか女子高生に嫌なことでもされたのだろうか。