Cord Blood

母親と子は臍の緒を通じて一つの生であった。それだけ強い繋がりがあったはずなのに。

ハチクマの習性




今日、ダーウィンが来た!という番組を見て感動してしまった。

ハチクマとは蜂を主な食料にする鷲のことである。
このハチクマの習性はなんと言っても温厚なところだ。
自然界の動物というのは、
ほとんどが他の仲間が食べている食べ物を奪い合う。
しかし、ハチクマは食料を奪い合うということは滅多にしない。

こんなオオワシとハチクマの違いを知って、
会社で躍起になって自分の意見を通そうとする人と、
温和に周りの意見を取り入れる人とが重なって見えてしまった。

会社に入りたての頃は、
前者のような人間が会社で生き残るものだと思っていたが、
最近は、たとえ会社で生き残れなくても
自分の特性を生かしている人間が、
最終的には幸せになるという考え方に変わった。

オオワシオオワシのようにしか生きられないし、
ハチクマはハチクマのようにしか生きられない。
そして私はハチクマのようにしか生きられない。

この番組で最も感動したのが、
足を怪我して、うまく枝にとまることができないハチクマが、
他のハチクマによって壊された蜂の巣の
食べ残りを食べているシーンである。

自然界であれば、怪我をした動物の食料は他の仲間によって奪われ
生き残ることは決して出来ない。それが自然界の淘汰である。
しかし、ハチクマは食料を奪い合うことはしない。
まさに本能による福利厚生である。

私は日本が強者や利己主義者だけが生き残るオオワシのような社会より、
弱者も生き残れるハチクマのような互いに支え合う社会であって欲しいと
切に願う。

韓国船沈没から学ぶこと




今回の韓国船沈没で、韓国は日本からの救援要請を断った。
何故なのか。

絶対的なプライドがあるからだろう。
日頃目の敵にしている日本から救援されることは、
プライドが許さないのだ。

日本よりも韓国に正義があると信じ、
その正義のもとで、
慰安婦像をアメリカ内で乱立させ、
靖国神社が精神的に堪え難い施設だと感じ、
旭日旗ハーケンクロイツと同一視し、
独島が自分たちのアイデンティティだと思っているのだから、
それらと敵対している日本に救われることは、
国としてのプライドに関わるのである。
もっと言えば、これらを否定すれば、
それは韓国ではないのである。

もし韓国的なプライドを日本が持つと以下のようになる。
韓国よりも日本に正義があり、
慰安婦なんて存在せず、居たとしてもそれは強制的ではない。
靖国神社は日本の精神の根幹であり、
外国に兎や角言われる筋合いは無い。
旭日旗は日本海軍が掲げていた旗であり、
竹島は合法的に日本のものであった。
こうなってしまうと、韓国からの救援要請があった場合に、
日本人としてのプライドが許すことが出来ないとなってしまうだろう。
つまり、今回の韓国船から学んだとは言えない。

学んだ上での主張は、
まず、正義の有無なんて国によって異なることだし、
そのお互いの正義を認め、
お互いの正義を傷つけないように細心の注意をするのが、
今の国際社会で生き残る前提である。
慰安婦像をアメリカに建てることは、
アメリカに済む日本人を迫害の対象にする行為である。
靖国神社戊辰戦争の頃から日本のために命を掛けた人を
神様として祀られている施設であり、平和を願う施設である。
旭日旗は党のシンボルではない。
竹島は終戦後奪われた島であり、
揉めている以上国際司法裁判所で決着をつけるべき。
こういう主張をすることで、無意味なプライドは持たず、
国際社会に素直に救援要請をし、
人命こそが何よりも大切だと思うことができる。

人命<プライド
よりも
プライド<人命
であることは、日本人であれば誰でも分かることだ。
もし日本で外国からの救助要請を断ったりしたら、
もうその政権およびその政党は完全に終わるだろう。
そもそも日本人は恩を着せるという行為が何よりも嫌いな民族だから、
救ったからってそれを主張なんてしないけどね。

サンデーモーニングにだけは言われたくない



今日のサンデーモーニングで「なぜ人は物事の本質を見誤るのか」という問いをしていた。
そのまま御返ししたい。
私が今までサンデーモーニングを見ていて思っていたのが、
「なぜ本質を見ずに、自分の信念、思想だけを押し付ける番組を作るのか?」
ということだ。

この番組では、憲法改正集団的自衛権の容認と言えば有無を言わさず反対。
そんな単純な思想の連中に「物事の本質」とか言われたくない。
こうやって「物事の本質」とか言って視聴者を洗脳している姿は、
戦時中に新聞社がやっていたことと何一つ変わらない。

慶應義塾女子高校生の礼儀正しさ



慶應義塾女子高校とは日本で偏差値がトップクラスの女子高である。
勿論、慶應義塾大学の付属高校だ。

彼女らの偏差値からすると普通の公立中学であれば、
中間試験や期末試験で学内トップを取っていただろう。
私が中学の時も、そういう女の子がいた。
才女と周りから呼ばれ、部活のキャプテンで、成績はオール5だ。
こんなにも完璧な人間が存在するのかと中学生であった私は
驚きを隠せなかった。

私はこういう頭のいい人と言うのは例外なく、
ぱっとしない子だと思いこんでいた。
だが、その思い込みは脆くも崩れさった。

通勤途中でこの高校の学生とすれ違う事が多いのだが、
その中に金髪の子がいるのである。
最初はあまり頭の良くない高校のただの不良かと思っていたが、
制服は明らかに慶應女子。
しかもこの子は非常に礼儀正しい。
コンビニの店員さんにもありがとうございましたという礼儀正しさ。

人間というのは、何か自分に得意な事があると天狗になる習性がある。
周りを見てもらえば分かるだろうが、
たいした事も出来ないのに傲慢に振る舞う輩も居る。
慶應女子に合格したというだけで、傲慢に振る舞ったっておかしくない。
それこそ最高峰のレベルなのだから、周りはそれを咎める権利すら無い。
咎めるならお前は合格出来るのかと問われればぐうの音も出ない。
しかも最近は利己主義者が蔓延る世の中である。
傲慢さに磨きを掛けていたって不思議ではない。

そんな中で、頭が良く、傲らず、礼儀正しく、自らを律する事ができ、
それでいてあえて社会に反発する。これぞ正に日本社会に必要な存在だろう。
そしてこういう人が日本を根本から変えてくれるであろう。

こういう子が日本にいてくれて本当に良かったと思う。
こういう子が居られる日本はまだまだ捨てたもんじゃない。

全く関係無いが、この高校の制服は日本一清楚だと思う。

他責と自責

プロの開発者は人のせいにしない。
とか噴飯ものの妄言を吐く者がいる。

ザ・利己主義者とでも言われたいのだろうか。
人のせいにしようが、自分のせいにしようがそれが一体なんなのだろうか。
こういうことを意識的にしろ、無意識的にしろ信念としている人は、
責任の所在を明らかにしたいという意思と、
仕事で人に迷惑をかけるなということを考えているのだろう。

だが責任の所在で言えば、そもそもその人が存在したことに、
その人自身の責任はないのだから、責めるべきは
その人を生んだ親だろう。
次にその人は、周りから影響を受けて生きてくるわけだから、
その人に関わった人全てに責任があるわけだ。
こういうことも分からずに、その人に責任があると言ってしまう。
やはり表面上しか物事が見えていないと言わざるを得ない。

仕事で人に迷惑を掛けるなというなら、
利己主義者こそ生きているだけで周りに不愉快にさせていることを
自覚せよと言わざるを得ない。

存在してきたことに責任が無いのだから、
その責任の無い人が失敗したって、その人には責任が無い。
責任とは、人間社会が作り出した仮の決めごとでしかない。
そういうことにしておかないと成り立たないでしょということでしかない。
そんなものに囚われているということは、
やはり社会に洗脳されているとしか思えない。

利己主義者とは自己中であり、もっと言えば自慰行為依存症である。

Spring依存症

JavaOSSにSpringと言うモノがある。
コンピュータ言語でプログラミングをした事がある人であれば、
依存関係を減らした方がいいと言う事を聞いた事があるだろう。
このSpringと言うのが、その依存関係を減らしてくれるのだ、
とでも思ってくれたらよい。

別にここではSpringの説明をしたいわけじゃない。
私がこのSpringから気になっているのは、依存という言葉ある。

何でもそうだが人は何かに依存しなければ生きられない。
子供の頃は親に依存しなければ生きられないし、
大人になったら社会に依存しなければ生きられない。
動物だってそうだ。食べ物に依存しなければ生きられない。
生きるとはそういうことだ。

プログラムをしていると、より良いコードのために
依存を減らすことに躍起になる。そのために多角的な分析をする。
そしてそれを補佐してくれるSpringに手を出す。
そしてその虜になる。
すれとこれはあたかも神が与えてくれた神具出あるかの如く崇拝し、
他者に対してそれを布教してくる。

もはやSpring無しには生きられないかの如く振る舞いをし始める。
依存することを回避するためのツールに依存している姿は
非常に滑稽である。

主観的に良いものが良いという風潮に疑問を持たない未熟さと、
論理的思考が真理であると思っている愚かさに絶望感を覚える。