Cord Blood

母親と子は臍の緒を通じて一つの生であった。それだけ強い繋がりがあったはずなのに。

いじめられる人といじめる人

小学校、中学校、高校、大学、そして会社。
どの段階の社会生活においても、いじめは無くならない。
学生時代、大人になればいじめは無いもので、
子供だから存在する現象だと思っていた。
こどもは想像力がなく、いじられる人の気持ちを理解できないから、
いじめをやめられないと思っていた。

だがいざ会社に入ってみると、
仕事ができない人や、他の人と同調できない人などは、
ほぼ例外無くいじめられる。
しかも会社というのは、仕事ができる人とできない人で
徐々に階級に開きがでてくるから、
学生の時に比べて、より深刻ないじめになる。

ここでは、いじめられる人の話はしない。
いじめられる人を救うのは当然だからだ。

問題は、いじめる人である。
なぜいじめる人は必ず集団で行うのか。
またいじめられる人が悪いと言うのか。
そこにどんな心理が働いているのか。

まず、いじめる人は自分を認めてもらいたいという気持ちが存在する。
原因は小さい頃に、周りの人に認められてこなかったからだ。
自分がやっていることを親などに批判されて育ってきたからだ。
人は自分の決意と共に生まれるわけではない。
強制的にしかも受け身として生まれてくる訳だ。
誰だって、強制的に何かをやれと言われれば、
なぜそんなことをやらなければならないのかと反発を持つし、
どうやっていいのかという不安にかられるだろう。
同じように、生きるということも最初は反発と不安でしかないのだ。

その反発と不安を取り除き、その人の存在を無条件に認めてくれるのが、
親、特に母親であろう。
偶然、そういうことができる親のもとに生まれることができれば、
ある意味、その人の人生は勝ったも同然である。
他者に承認されたいという気持ちはなく、
自然にどのような人に対しても自然に接することができるし、
いじめる側にまわることは決して無い。

しかし偶然、存在を無条件に認めてくれない親のもとに生まれたらどうなるのか。
生まれてきたことへの反発と不安は取り除かれずに自己ができあがってしまう。
するとどうにかしてこれらを取り除きたい、他者に認めてもらいたい、
という気持ちが猛烈な欲求として常に存在したまま生活せざるを得なくなる。

その欲求を満たすことができるのがいじめなのだ。
だからいじめる対象は誰でもよいのだ。
いじめることで、他者から承認を得る。
これが今までの人生で解決できなかった不安で溜まらない
という自己の存在を満たしてくれる。
つまり、自分がここに居ていいのだという快感に変わるのだ。

これがいじめのメカニズムである。

このように考えると国が考えているいじめ対策なんぞ
何の意味も無いことだということも分かる。
いじめに関して狭い範囲でしか見えていない人たちが頑張ると、
こういう対策になってしまう。

いじめられる人がやるべきことはすぐに逃げることだ。
耐えるのではなく逃げるのだ。
人生はいつ終わるか分からない。
些細なことでも人は壊れてしまう。
人は強くない。
自分の力ではどうしようもないことは逃げるしかない。
自分の居場所が見つかるまで逃げる。
最後に行き着いたところが生活すべき場所である。